からだはうす「時の徴(しるし)」

生まれたときから呼吸する            

吸ういきで出会い 吐く息で別れる

くり返し くり返される

いのちとはそういうもの 

自在で多彩ないのちとは

            

              ~ SPIRIT&BODY ~

              からだはうす


             身体 = 「指圧・整体治療」  


              心 = 「呼吸法」  「カウンセリング」


             創造性 = 「神殿舞踏」



    ☆ チャクラブレスグループセッションの予定 ☆


          10月9日(第2日曜日) 

          11月13日(第2日曜日) 


       ところ :  からだはうす 三鷹

       時間 : AM10:00~PM8:00   

      お問い合わせ 0422-38-8656  

       e-meil jizou@aioros.ocn.ne.jp 要予約


 
「自分探しの呼吸法」  高橋 実著   雲母書房 

        からだはうす「時の徴(しるし)」


                 海が呼吸する
                   吐くいきで寄せる波
                   吸ういきで返す波
                   寄せる波は上を滑り
                   返す波は下を潜り
                   お互いにすれちがうとき
               出会っているのか 別れているのか・・・?



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ストレッチ---開脚----

からだはうすで行っているストレッチ教室は、ただストレッチをおこなうだけではありません。

 

身体の構造を知りながら、具体的なイメージを持って、自分と向き合い、身体を改善していく場です。 教室の中で行っているストレッチのポイントをご紹介してまいります。

 

まずはストレッチの中でもスタンダードなポーズに開脚があります。

 

太ももの付け根から膝の内側に延びる筋肉を柔らかくするポーズの重要さについて簡単に説明していきます。

 

 立っている状態では上半身の重力は脚に流れます。

それも主に両脚の内側を通る。 足底に土踏まずのアーチがあるのは、その重力を吸収するためで、親指が大きいのもそれを支えるためです。

 

太ももの内側の筋肉が硬くなると重みを吸収できなくなり、エネルギーがどんどん脚の外側に流れてしまいます。 すると、膝関節が歪みO脚になっていきます。

 

膝が外側に歪むと真っ直ぐに立てません。つまり、膝が曲がり腰も曲がってしまいます。

 

お年寄りの方に多い変形性膝関節症はこういったプロセスを経て発症するのです。

 

開脚のポーズは幾つになっても真っ直ぐに立つことができるための必須ポーズのひとつです。

 

やり方で注意することは、できるだけ骨盤を立てるようにします。

 

床に頭がつくことよりも、背中をしっかり伸ばして両手をつっかい棒にしておへそを前に押し出してあげるようにしましょう。

 

足首90度に立てて太ももに力を入れ、膝が曲がって床から浮かないようにします。

 

我慢できる程度のきつさのところでキープして、ゆっくりと大きな呼吸と、伸ばされている筋肉の中をエネルギーが流れてイメージを合体させて行います。

 

ストレッチは一回に沢山するよりも、何度も繰り返す事が重要です。

 

適当なところで一度ほどいて筋肉をゆるめ、他のポーズをしてからまた開脚に戻るというように、繰り返してやる方で効果が上がります。それに、飽きにくいです。

 

 次回は脚がまったく開かない人が、飽きずに、諦めずにやれて、やがて開脚が大好きになるためのやり方をお教えします。

 

一人ではなかなか継続できないという場合には、是非、からだはうすに足を運んでください。

 

毎週火曜日・水曜日・土曜日・日曜日の10時からストレッチ教室を開催しています。

 

参加の場合にはお電話ください。

からだはうす:電話0422-38-8656

 

 

 

愛おしいイノチ

呼吸のワークショップをはじめてから30年が経つ。何故それほど長い期間続けられたかというと、大げさに聞こえるかもしれないが、私は呼吸の激しさや深さから生まれる生命のダイナミズムに「愛おしさ」を感じるからである。

ここで言う生命のダイナミズムとは何か。それは、人間が作り上げてきたさまざまな価値感や道徳や規律や合理的な知識が拾いあげ対処することのできなかった個々人の心身に眠る、或いは、渦巻くエネルギーの発動のことである。ポジティブには潜在的な感覚や力のことであり、ネガティヴな側面としては抑圧された感情や身体の痛みや不快感の源のことである。

人間に存在するいろいろなエネルギーは直接には目に見えない。私たちは、身体の動きや形や変化という存在表現を通してはじめて人のエネルギー状態を理解する。悲しい時は悲しい顔になり涙も出たりする。機嫌が悪い時は意識せずとも仏頂面になる。人間世界は身体を通してはじめて絵になり形になり出来事になる。

人間生命は存在しているだけですでに表現態である。つまり、自分が意識する以前に内側では自動的に感覚反応が働いている。表現という言葉を意図を持った創作だけに限定してしまうと心身のエネルギーは理解できない。

エネルギーを活性化させる呼吸法は自分の意識が関与できない領域、それを無意識的領域と言っても差し支えないが、身体と心の秘密の部屋の扉を開ける作業となる。思いもかけぬ感情や感覚が生まれ、また、不思議な身体の動きや形をとり、さらに、想像だにしていなかったビジョン(映像)が脳内に現れたりする。それはエネルギーの純粋活性化とでも言えるような生命の雄叫びである。もちろん、静謐なる雄叫びもある。

私は、その雄叫びを観て聴いて触れて感じようとする。そして、命がいかに束縛感と不安感を抱え開放と自由を求めているかを知るのである。自然も人間も一瞬たりとも止まっている時はないという意味で、人は日々、未知との遭遇である。その出会いと別れのいちいちに笑い、涙し、怒り、悩み、恐れ、苦しみ、歓喜する。


命とはまことに「けなげ」である。私はその「けなげさ」をいつも「愛おしく」思ってしまう。それは、あまりに情緒的過ぎるかもしれない。それでも、私は呼吸のワークから命の真髄を教えてもらっていると思うのである。

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創造から父権制へ

創造は破壊と表裏する。人間の創造性が文化文明を生み出してきたことには誰にも異存はないだろう。しかし、人間が新たに作り出すものは何かしらの破壊を伴う。人為的創造の半面は破壊であり、そうであれば創造には暴力も付随する。


その象徴的姿を現代の社会現象や環境破壊に窺うことは容易い。原発、武器、薬、食、スマホ、法律や産業の構造等々、私たちはゴミと副作用を生み出すシステムの悪循環にすっぽりとはまってしまった。実に創造とはゲーム的であったのである。


死に迫る男たちが見る夢は絶対的なるものを手に入れることであった。創造のはじめには、意識するしないにかかわらず変化しないことへの意図がある。科学や学問研究やモノを作る技の成果は普遍的なるものへの希求に根ざしている。



それを推進してきたのが男たちの「マニアックな集中力」であったと私は思う。絶対的なるもの、永遠なるもの、唯一なるものへの執着やそれに惹かれる心性が、やがての父権制を敷いていく力の背後にあった。


そのような意味で、「生成」から「創造」へとシフトした歴史の分岐点には男たちがいたのである。そして、いまだに残る男たちの変化に対する鈍感さや不器用さはそうした執着や心性からくる必然でもあった。自然とのつながりが希薄な彼らにはいつも「後がない」のだ。


人間身体には意志、自尊心、感情、表現、知性、霊性などの精神エネルギーが備わる。私たちはそれらのエネルギーを瞬時に組み合わせた形での一瞬一瞬を生きている。食と性の横溢な原始エネルギーはそれらの精神エネルギーを上昇する形でそれぞれに振り分けられていった。そこで随時生まれる力を私たちは創造性と呼び、生まれ出たものの総称を文化文明と呼んでいる。


精神エネルギーのルートに乗って男たちはとにかく上を目指した。知性や霊性の領域である。できるだけ原始本能のエネルギーから遠く離れたかったのだろうか。男たちは新しい自然界を作るために、生ではなく死へのアプローチを試みていく。「陣痛」(神が通るということ)に匹敵する臨死体験のために。


男たちの食と性のエネルギーは極めて単一的であるが、人間的個性という意味では見事にバラっバラっである。取り繕ってはいるが本質は妙な生き物である。保育園や幼稚園にいる男の子を眺めればわかる。奇人変人変態のオンパレードと言っても過言ではない。男はだいたいがそのまま大人になっている。


幼さをそのままに、男たちは「マニアックな集中力」において自らを際立たせる生き物となる。そして、死に至る危険を侵しながら、また、同じ死の過ちを繰り返しながら、自らの身体の上空彼方に聴いたものが「父なる神」の恩寵であった。


自然からの疎外感と欠乏感覚を原動力に変えて死と対峙することから、ついに死の向こう側(天国と地獄)を創造(言語化)するに至ったとき、男たちがリードする文化文明が開いていくことになった。ここにおいて明らかになる。父権制に滅びの美学が付きまとっている(犠牲、殉教、悲劇など)ことの訳が。

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死に向かう男たち

男のセクシャルな生態には無意識裡に欠乏感覚がある。それを埋めるために用意されたものが、筋力や体力という「パワー」と「集中力」であった。それを如実に示すものが「修行」と呼ばれる行為ではないだろうか。男はあの非生産的行為の中に何を見い出そうとしたのだろう。


理屈では身心を脱落させて悟りを得る行為らしいが、その厳しさにおいて並大抵のパワーと集中力ではない。修行の方法もいろいろあるが、基本的に共通するのは食と性のエネルギーとの対峙である。粗食(断食)と禁欲がそれである。


食と性のエネルギーは人間生命の力の源である。ところが、修行は食と性を絶つ。食は個体を維持し、性は種を存続させるものなのに、なぜ生命の方向性に逆らうのであろうか。



考えるに、食と性を絶つ修行とは死に肉迫しようとするものである。男は「パワー」と「集中力」をもって死に直面することで自らの欠乏感に落とし前をつけようとしたのではないだろうか。


男たちがいつ頃から修行という反自然的な行為に目覚めたのかはわからないが、そもそも男の身体生理が自然性から疎外された形で登場したということと関係していると私はみる。


自然界はどこもかしこも神秘な生成の場である。女性も新しい生命を生成する。しかし、自分には生成するものがない。この事実に気づいた男たちは無意識裡に消沈したのではないだろうか。自分には自然サイクルとの調和がないと。


自然が常に生の謳歌に向かうことを考えれば、死への肉迫は男として自然や女性と唯一対等に渡り合える行為である。そこで男たちは漲るパワーと研ぎ澄まされた集中力を持って生成にではなく死に向かい合ったのだと思う。


宗教概念としての「修行」は分かりやすい喩えとして挙げたのだが、いずれにしても、自然や女性に匹敵する存在価値があるということの証は、死と背中合わせの危険を賭すことであった。冒険的行為や戦いや他人がやらないこと、つまり未知に向かった。悲しいかな、男とは自ら「男を試している」のである。


そして、いつしか男たちの「パワー」と「集中力」は自然界や女性たちの特権である「生成」に匹敵するものに出会うことになる。その出会ったものの名を「創造」という。創造はやがて労働を生み、これにより食は満たされていき、過剰な性エネルギーの振り分け先が確保されていくのである。

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男性に宿る欠乏感

全身に漲る力が性器の怒張に象徴されるとはいえ、男はそのままを維持することができない。精子の放出後は萎えるのである。そしてまたゼロからスタートする。それは、男の行き着いた先のリアリティーに身体的果実が用意されていないことを意味する。


もっとも充実した状態からスタートして、虚空を掴むようなゴールが設定される。男の性の旺盛さは実りなき営為そのものから生まれる。得るものがないがゆえに繰り返されるのだ。


私には、夏の夜空に打ち上げられる花火に男たちの生態(精子たちが散っていく様)が重なって見えてくる。散ると言えば、先の大戦で利なき戦略の犠牲になった特攻兵を思うが、あまりに単純な男の身体生理に順じた戦法であったことか。ああ、旧日本軍の原始的感性!


満ちた力が放出された後はある種の虚脱状態となる。男とはまことに奉仕としての生き物である。女性は逆に、空っぽの所に実質感が満ちてくる(胎児という果実)。


しかし、このゼロからスタートして全身に力を漲らせ、放出して果てるという機能に男性独自の原動力があると私は考える。それは、身体的に果実が得られないことからくる欠乏感である。


男には、性行為において、自らの満足よりも相手の喜びや満足の方に重きが置かれているということがある。相手が喜ばないと面目が立たないと同時に、欠如や欠乏の感覚の埋め合わせをしてくれるものが、女性の喜びや満足感なのである。


けれども、いったい誰が女性に完璧な満足を与えることができるというのか、いたとしたら私は訝しむ。こうした話のとき、男はすぐに精力の強さを想像するが、女性にとって精力の強さは満足の一部でしかない。では他に何があるのか。それこそ男性自身が考えねばならないことなので、敢えて言わないことにする。


女性が喜ぶことに関しては、こんなたとえにも似る。マイホームを購入した男性は、建物そのものに満足するわけではない。女房子供が喜ぶから、自分も満足するのである。多くの男性の内部では最終的にどこで野垂れ死にしてもよいとどこかで思っているものだ。家という建物を喜ぶのは女房子供なのである。


となると、男の満足には女性や他者の満足が必須である。だが、困ったことに女性はそう簡単には満足しないのである。というより、満足のキャパが広がっていくのでなかなか追いつかないのだ。


家を建てたら、壁の色カーテンの生地、どういう家具が等々とはじまる。男はローンを背負って、どうせ俺は寝に帰るだけだから・・・と。日本的サラリーマンの典型だが、その深部には満たされない感覚が残る。


男は、俺はこれで充分であるという感覚が身体的に発生しにくい。そのため、それに変わるものを設定した。それが、富であり、地位であり、名誉名声であり、ブランドである。行き場を無くした性エネルギーだけでなく、純正な性エネルギーそのものからも生み出される欠乏感はそれらの社会的に優位性を強調するものに肩代わりされていくのである。


女性もまた、それらに惹かれざるを得ない。それらは広がり続ける満足のキャパを埋めてくれる要因となるものであるから。


男の欠乏感は責任に対する淡い感性(だらしなさ)に通じるものだが、まだだ、まだだという自制的習性にも一役買っている。


男とは自制的な生き物である。男が自制的でなかったとしたら、社会は成り立たないであろう。精神年齢が6歳くらいの大人の男たちばかりの世界を想像できるだろうか。


発情期が解除された性エネルギーの暴発を制御するということはそれほどに重要なことであった。暴発を防ぎながら性エネルギーを大脳皮質に送り込んで昇華作用を起こすには欠乏感覚(何かが足りない)という原動力が必要だったのである。

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暴力の開花

生物は自らの命を維持する為に食し、自らの種を残す為に生殖の行為に勤しむ。これまでバクテリアから霊長類まで生物は進化してきたわけだが、食物連鎖の環、自然摂理の範囲を逸脱したのが人類であった。私はその逸脱した過剰な力にこそ暴力性が潜んでいるように思う。


動物たちが獲物を狩る行為は暴力ではない。人類は自らの命の維持と種の保存の為に大脳を発達させ知恵を活かした。それも当初は生物種としての必然であったろう。


しかし、その知恵は必要以上の欲望をも引っ張り出してしまった。言うなれば、文明とは過剰な欲望の所産である。食の豊かさを追求する知恵にも、性エネルギーを制御する知恵にも暴力性がまとわりつくことになった。私たち人類は史上最も暴力性を帯びた生物となったのである。


単純なところでは、歴史は幾多の大小の戦いを中心に展開してきた。数多く殺した側がほぼ覇権を握り支配する。私たちは何も不思議と感じることなく、いや、むしろ当然のごとく教科書をめくり、本を読み、映画やドラマの中にそんな殺し合いを見て感動したりもする。動物のように相手を喰らう為の殺しではない。同じ生物種が殺し合い、そして、ただ捨ててきた。


人間はその殺し合いの背景に巧みに正義と善を仕掛けて肯定してきた。死と隣り合わせの原始的な生活から抜け出そうと、あらゆる手立てと言い訳を考案してきた。自らの命を存続させる為にはどんな行為も厭わない、そう思うことができた人間だけが生き延びてきたのである。それが私たちの祖先であり私たち自身である。


食を生産する力を持つことの副作用から過剰な欲望も生まれ、食餌と生殖を奪い合うようになる。食と性のエネルギーは絶大である。それは人間的創造の源泉でもある。


人間的創造を文化文明と言い換えてもよいが、この文化文明の発達が奪い合い(戦い)に意味を持たせ、人間は戦いに勝ち続けることによってしか戦いが無くなることはないという摩訶不思議な論理に囚われてしまった。それは現在の民主主義?のあらゆる現場でも戦い(競争)に勝利することが強調されていることからも理解できる。私たちの身体感性の中に戦いへの肯定が刻印されいるのである。


今でも、世界中で大きなものから小さなものまで殺戮は絶えることなく続いている。近年、日本に限らずあちこちで火山の噴火が起きているが、もっとも爆発噴火しているのは人間の暴力だろう。


人間はこの地球を舞台にして好き勝手に暴れまくっている。私は、その理由や原因を考慮して殺し合うのは仕方がないことだと言いたいのではない。この暴力を沈静化させる生物種としての機能をどのように芽吹かせることができるのか、私たちは、生物的身体そのものの構造改革を迫られているのだと思うのである。

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オスから男性へ

生物の雌に備わる基本原則は、食餌と精子の獲得である。そう言う意味で、精子バンクを利用する自立した女性たちは生物としての本義にきっちり則っていると言える。日本的主婦の「亭主元気で外がいい」というのは、子はもうけた(精子の獲得は済んだ)ので、あとは生活できる(食にありつける)お金があれば充分であるという告白であり、それも基本原則に則る。


雌が欲しいのは雄ではない、精子なのだ。問題なのは、当たり前のことながら、雄と精子が一体化しているということである。そして、この雄と精子の一体化を目論んだ有性生殖プログラムは人類種において極めて特異な進化を遂げることになる。


やりっ放しの出しっ放し的機能(性エネルギー)を受け持つ性に分化した雄だが、群れという集団内ではその性エネルギーが役割りの遂行に振り分けられる。主には縄張りの確保と群れの統制である。


動物には発情期があるので、性エネルギーと役割としての力の誇示が比較的分かれている。つまり、性のエネルギーで群れを立ち上げ、或いは、獲得し、役割のエネルギーで群れを統率・維持する。人間においても、女性はともかく、発情期を解除された男性の有り余る性エネルギーの振り分け先を見つける必要があった。


太母(グレートマザー)が仕切っていた狩猟採集生活から徐々に農耕が行なわれはじめる頃、いろいろな器具道具も作れられていく。食糧の備蓄も可能になればその食糧を狙う者が現れる。それを守るために小さな群れが集団化していき武器も考えられていく。共同体に秩序や規律が生まれる。


群れの集合、道具や武器の作成、集団内の秩序と規律と個の役割、儀礼的な慣わし等々、これらを総じて私は「社会化」と言うが、これらの動きや流れに適時反応していったのが男性の性エネルギーだったのではないか。男たちは生物の基本にある自らの性エネルギーを「マニアックな集中力」に変換していったのだと思う。


私はかねがね、男性に秀でた能力は肉体的な筋力・体力を別とすればひとつしかないと思っているのだが、それこそが「ひとつのことに深く拘る集中力」であった。私はこの拘りの集中力が広い意味での文化(良い悪いは別にして)を推進してきたと考える。極論が許されるなら、女性原理が子を産み育むのに対して男性原理はモノとシステムを創り出した。


生物としての本義が種の保存にあるなら食と性は最も根本にあるエネルギーである。ならば、この世のすべての文化遺産の深奥に通底しているものは食と性のエネルギーであろう。そして、社会と文化の登場を期に、このふたつの基本エネルギーが内包する暴力性が姿をあらわす時も間近に迫っていたのである。

無責任なエネルギー

男性器の特徴は、外付けであり、ぶらぶらと動き、形を変える。加えて、無数の精子を放出するというのがある。


性と暴力には密接なつながりがあるとはいえ、勃起した男性器から放出される射精の図は、どうしてこうも戦いの武器(飛び道具)に似るのだろうか。


拳銃から機関銃、大砲までそっくりの形を示す。機関銃などの数打ちゃ当たる的なものは、一度に億の数が放出されるほどの的を外した仕組みをもつ射精そのものである。

...


億の数が必要だということは受精の確率の悪さを示すとともに、圧倒的な数の未熟な精子たちを想像させる。その中からスーパースターを見つけるのは至難の技である。女性たちもきっと失敗を繰り返しているのだ。


勃起とは卵子に向かう精子たちの戦闘モードとしてある。男は精子のレベルで互いにライバルであり競争をしているように思えるが、卵子に対する精子全体の総力戦かもしれない。


ともかく、幸運にも一匹の精子が卵子と出会い、見染められたときにはじめて男としてのお役目が達成するのだが、この性の営みのプロセスで、女性とは徹底的に異なることがある。


それは、男性は精子の放出までが仕事であるということだ。放出から先は手を出せないのである。悲しいかな、出しっ放しで終わるのだ。新しい生命の生成プロセスに関与できないのである。


弾丸は打つが行き先は不明、たとえ受精が成功したとしても、神秘の寝床を覗き見することさえできない。このやりっ放しの機能が男性的原理の真ん中にあると私は思っている。


やりっ放しの無責任、女性の方々の中にはピンと来る方もおありだろう。はたして、男性には自分の身体の中に責任を持つという機能が備わっていなかった。


暴力も一度発動させたら、他者の傷を自らが請け負うということが不可能であるという意味において、まさに無責任極まりない行為なのである。その暴力性が男性身体には備わる。


女性は自分の身体で責任を負う性としてある。何しろ、胎児は母親の子宮内で成長しているのだから。



過去の時代にも現代にもこの社会には無責任が横行している。父権制への移行より暴力(戦い)が歴史を彩ってきた。いまだに国盗り物語が賛美され、責任のとりようもない戦いへと邁進しようとする動きもある。


そこで今さらではあるが、勃起した男が言うところの責任は信用ならぬと改めて肝に銘じなければならないだろう。

全身に漲る力

男性の可笑しさ(妙な生態)は生殖器の動的現象に由来する。女性器が静なら男性器の特徴は動くということである。外付けにぶらぶらしていることもそうだが、それそのものが伸びたり縮んだり、膨らんだり萎んだりする。便利といえば便利だが、厄介といえば厄介でもある。


しかし、この有りようが実に男性性を象徴する。男性器の膨張が示すものは、大きさ、強さ、たくましさである。つまりパワーである。


男に充足感をもたらすものは全身に漲る力であることを思えば、勃起とはある意味男性に漲る力の象徴である。それは、転んで泣いている男の子にかけられる叱咤激励のことばに如実に表れる「さあ立て(勃て)、男だろ!」と。それは、掛け合わさったことばとしてある。

...


そして、全身に漲る力が男としての充実感であり証明であるという感覚は、男の好戦的な性質のベースにある。きっかけが何であろうが全身に(特に筋肉的に)漲る力は暴力に移行しやすい。


見ようによっては、sexそのものの姿態にもあきらかに暴力性が見て取れる。戦時におけるレイプなどにはそういう背景もある。全身に漲る力(戦時のそれは極限的緊張状態として)が生殖器を通して暴発するのだ。


性と暴力、どちらも漲る力によって遂行される。裸で格闘するプロレスや精子の競争のようなF1レースにはなぜか、ハイレグ水着姿の女性が場を賑わしている。巨漢を激突させるアメリカンフットボールにもチアリーダーが全身を広げて応援する。強くたくましい男たちへの熱い視線。どちらにせよ、肉体とは極めて性的なものである。


古来より、子孫を残す為の逞しい遺伝子と部族社会を維持する為の強靭な力を男たちは要請された。もともと、男にとって肉体的パワーと性エネルギーは同居関係にあるが、小さな部族が大きくなる(社会化していく)につれ、動物的縄張りを基にする生活から農耕が芽生え始める頃への想像だが、男たちは肉体的パワーの分散化と性エネルギーの制御を余儀なくされはじめた。


つまり、「社会」という構造が男たちに、自然と一体的な生活習慣や規律や知恵から新しい生活のための規律と知恵を求めたのだ。男の肉体的パワーはマニアックな集中力に流れ出していき、今へと続く「文化」が胎動しはじめた。そして、性エネルギーの制御は、正当化された暴力性(抑圧や差別や支配)へと溢れていったのではないか。


原始母権社会を想像するなら、それほどの暴力はなかったのではないだろうか。小さな部族内での殺戮行為は自滅につながるし(成人の数が減れば縄張りを守れなくなる)、部族間の争いは互いの存亡にたやすく結びつく。


死産や流産は当たり前、生まれても病気や栄養の問題で死んでしまうような時代に子供は貴重な宝であったはずだ。その宝を同じ仲間の差別的暴力で壊すなどあり得ない。暴力が正当化されてくるのは、ある一定以上の人数を超えた集団になってからだろう。

凸なる男性の原理

人は女性の値踏みや男性の品定めが好きである。とにかく興味の対象として互いにこれを上回るものはない。



だが、そうした話の内容といえば、一般的性質や日常の特異な反応や印象を取り上げてそれぞれに規定し語ることがほとんどだ(例えば、男はよく威張るとかお酒が入らないと本音を出せないとか、女はすぐ感情的になるとか、どうでもいいことを延々と話す 、等々)。



そうした論に心理学的な根拠を見つけて、なぜ互いの性質がそうであるかの研究もある。

...


しかし、私の視点はもっと単純である。人間の身体の形態と働きから見えること、想像できることがある。

そこにはそれほど個別性がなく、言い訳(学問的根拠)も必要なく、それぞれの性に備わる普遍性により近づけるのである。


内なるもの、静かなるもの、ひとつなるものが女性生殖器の特性ならば、凸なる男性生殖器は外なるもの、動くもの、無数のものとしてある。これもまた見事に男性的原理を示す。男の生殖器は外付けであり、ぶらぶらと揺れ、大きくなったり小さくなったり動き、形を変え、精子は無数にある。


男とは社会的な生き物だとよく言われるが、その社会とは主に外の世界のことである。男は昔から用もないのに外にぶらぶらと出かけていく。その性癖はまことに性器のありように則っている。男たちは股間に揺れる一物に誘導されながら行動していると言っても決して言い過ぎではない。


女性が子宮という宇宙を内在させているとすれば、男性の宇宙は社会という外部世界である。間違えてならないのは自然界ではなく「社会」ということ。


もし、男性が自然界と密接なつながりがあるとしたら、ただ放出されるだけの精子を大好物とする生物がいるはずである。現代ならば、餌代のかからないペットととして飼われていたかも知れない。


精子は男独自の卵と考えられなくもない。どんな生物も卵や子が好物である(獲物として捕らえやすいということもあるが)ことを考えれば、男子の睾丸がたまらなく好きという生物がいてもおかしくない。


ところがそういう生物はいないのである。生物史の途中で駆逐されてしまったのだろうか。よほどまずいのかすぐに傷んでしまうのか栄養がまったくないのか・・・ちょっと笑える想像である。


余談はおいといて、女性にはリズムを共にする自然性が内包されている。そして、男性が自然の一部に数えられる可能性があるとすれば、それは、自然界の食物連鎖の一環に参入しているかどうかである。肉あるものは喰われるのだ(草木や果実も含め)。


しかし、男たちは自然界の環から外された。よって、男性にとって世界というのは自然界ではなく「社会」なのである。私は「男とは社会的な生き物である」という一般論をそのように理解している。


極論だが、男たちの支配的性質は自然界の環から外されたところからくる疎外感と密接な関係があるのではないだろうか。共同体もある一定の閾値を越えればそこには必然的にヒエラルキー構造が生まれる。「社会」は男たちの出番を待っていたのである。


逆に言えば、男たちの自然性への接点となるのが唯一母なる子宮であった。子宮とつながることは自然とつながること。魅惑されるはずである。


よく母親との癒着も話題になるが、男からすれば母なるもの(自然)への郷愁としてある。生殖のエネルギーが示す形姿は種としてのありようを如実に教えてくれていると思うのだ。

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